2011年12月16日 20時46分
初めまして。
私は独立開業を目指している男性です。
一昨年ほど前に病気で退職を余儀なくされまして、現在無職の状態です。小さい頃から将来自分のお店を持つことを目標としてきました。
この度、知人の紹介によりある飲食店のフランチャイズを進められました。現在の状態を機に開業して見ようと思うのですが、資金面で一抹の不安を拭えません。
助成金のことは最近知ったのですが詳しくは理解していません。
助成金とは個人事業の開業や飲食店の開業にも適用できるのでしょうか?
また、適用できるとしたらどのように申請すればよいのでしょうか?
そのときに、必要な書類や計画書等の作成は必要なのでしょうか?
詳しく教えていただけますと幸いです。
こんにちは。自分で色々調べているつもりですが、微妙にまだわからないことがあるのでお願いします。
私は会社員の夫の扶養に入っている専業主婦です。今年から自宅で自分デザインした小物をコツコツと制作し、店頭に営業を始めるところにきました。開業届けはまだ出していませんが、そのことでお聞きしたいことがあります。
実際にこの起業を始めるのは妻の私なのですが、個人事業主の名前を夫にして、そのまま彼は会社員として、私はその事業をやっていくことは可能なのでしょうか?
また、もし私(妻)が個人事業主として開業届けを出さなければならない場合、タイミングはいつが良いのでしょうか?今年の売り上げは赤字、もしくは使った経費などを返上してプラスマイナス0、また運良く少しの売り上げが期待されます。
よろしくお願いします。
サラリーマンをしながら副業収入のために会社設立を検討しているのですが、その際の留意点で、下記の点を懸念しております。
〜社会保険・厚生年金について〜
メイン会社において加入していますが、起業の際にこれはどうなるのでしょうか?新たに加入し直しなのか、そのまま入らずとも起業できるのか?教えてください。
早生まれで子供を出産し、保育園激戦区で0歳4月の入園を狙って保育園を確保しました。復帰して2ヶ月が経ちました。まだ小さすぎる子供がかわいそうで、会社の制度で取れる最大の時短9時−15時を利用して完全母乳で育児をしています。
職種は製造業の研究開発で、子育て両立の制度は整っています。
しかし、私の所属する研究は開発のように、ルーティン的な仕事が出来ません。復帰したところで、自分でテーマを立ち上げなければならず、時間が足りず、妊娠前のように思うようにできません。各人が個々に進めているので誰かに迷惑をかけているわけではありません。
どちらかというと男社会です。
所属のグループでの会議で集中砲火を浴びました。
内容は、テーマの詰めが甘いこと、リサーチ不足なことです。毎週、そのことをグループ長やメンバーから詰られ、ついにそういった会議や報告会のときにしどろもどろになったり、変な汗をかき、子宮や胃に痛みが走るようになりました。時間が少ないを言い訳に、あまり進められなかったことは確かです。その分をカバーしようと、夜中の授乳の後せっせと書き物や調べもの、自分なりに努力してきました。しかし、同僚や上司の目は冷たく、誰かがアドバイスをくれれば済むようなことも一人で抱え込んでいます。「白といえば黒」というタイプの人が多く、まず批判から入ります。かといって「これをやればゴールに近づくのでは?」という具体的なアドバイスが皆無で、私はいつも右往左往してしまいます。批判された部分を直そうと動くと、さらにその行為に対してもこれまでに2度ほどメールで注意されました。夜眠れなくなり、このままでは欝になりそうなので誰かに相談するか、異動願いを出す、休職をするなど最良の選択肢を模索しています。どのように立ち振る舞ったらよいでしょうか?
仕事と子育てを両立してきた方々のご意見、アドバイスをお願いします。
スペイン領テキサス(スペインりょうテキサス、英: Spanish Texas)は、1690年から1821年まで存在したヌエバ・エスパーニャの1地方である。名目上スペインが、メディナ川とニュエセス川の北の土地を含み現在のテキサス州の一部である領土の所有権を主張していたが、1689年に失敗したフランス植民地サンルイ砦の残骸を発見するまでこの地域に植民しようとしていなかった。1690年、アロンソ・デ・レオンが数人のカトリック教会宣教師を護衛してテキサス東部に至り、テキサスでは最初の伝道所を設立した。インディアンがスペイン人の入ってきたことに抵抗したとき、宣教師達はメキシコに戻り、その後の20年間はテキサスを放棄していた。
スペインは1716年にテキサス東部に戻ってきて、幾つかの伝道所と1つの砦を建設し、スペイン領とフランス領ルイジアナの緩衝地帯を維持しようとした。その2年後に伝道所とそれに最も近いスペイン開拓地との中継点として、サンアントニオに初めての文民による開拓地が設立された。この新しい町は直ぐにリパン・アパッチ族インディアンの襲撃目標になった。この襲撃はほぼ30年間周期的に続いた後、1749年にスペインとアパッチ族が休戦協定を結んだ。この休戦協定はアパッチ族の敵部族を怒らせ、コマンチェ族、トンカワ族およびハシナイ族によるスペイン開拓地への襲撃に繋がった。インディアンからの攻撃と、副王領から遠いことで、開拓者達はテキサスに行くことを躊躇うことになり、ヌエバ・エスパーニャの中でも人口の最も希薄な地域の一つのままだった。インディアンからの攻撃の脅威は1785年まで続き、この年スペインはコマンチェ族と和平合意に達して、スペイン開拓者達にとって問題を与え続けていたリパン・アパッチ族やカランカワ族をその後に破るときにコマンチェ族が役立った。この地域に伝道所の数が増したことで、他の種族を平和的存在に変えることが進み、18世紀が終わるまでにこの地域でキリスト教に改宗していない狩猟採集型部族はほんの少数のみとなった。
フランスは、フランス領ルイジアナをスペインに割譲した1762年に、正式にテキサスに対する領有権主張を放棄した。ルイジアナを獲得したことはテキサスがもはや実質的緩衝地帯ではないことを意味し、テキサスの最東端にあった開拓地は解体されて、住民はサンアントニオに移った。しかし、1799年、スペインはルイジアナをフランスに返還し、その直後にナポレオンがルイジアナをアメリカ合衆国に売却した。アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンは、この買収にはロッキー山脈の東でリオ・グランデ川より北の土地全てを含むと主張した。これに伴う論争は1819年のアダムズ=オニス条約で、アメリカ合衆国がサビーン川をテキサスの東境界と認める替わりに、スペインがフロリダをアメリカ合衆国に割譲することで解決された。
1810年から1821年のメキシコ独立戦争の間、テキサスは多くの騒擾を経験した。マヌエル・マリア・デ・サルセド知事は1810年の反乱で転覆させられたが、看守を説得して釈放させ、反クーデターの動きを助けさせた。3年後に主にインディアンやアメリカ人によって構成された北部共和国軍が再度テキサス政府を転覆させサルセドを処刑した。スペインの反撃は残酷なものとなり、1820年までにテキサスにいるヒスパニック系市民は2,000人足らずになった。スペインは1821年にヌエバ・エスパーニャの支配を放棄せざるを得なくなり、テキサスは新しく創られた国家、メキシコの1州となり、メキシコ領テキサスと呼ばれる時代になった。
スペインはテキサスに深い足跡を残した。ヨーロッパから連れてきた家畜はメスキートが内陸部まで拡がる原因となり、農夫達が土地を耕し灌漑を施したことで風景は一変した。多くの川、町および郡の名前にスペイン語が使われ、それらは現在でも使われている。スペイン風建築の概念は今でも通用している。テキサスは最終的にイギリス系アメリカ人の法体系を採用したが、家産差し押さえ免除や夫婦共有財産などスペインの法習慣の多くが残っている。
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